インタビュー企画概要
外国人留学生の数は、2020年5月1日現在、27万人[1]を超えています。2019年の私費留学生を対象にした調査によると、卒業後に日本での就職を希望する学生は半数以上に上りました。
一方で、実際に就職できる学生の割合は40%以下という調査結果があります[2]。政府はかねてより、留学生の就職率を50%に向上させることを目標に掲げ[3]、検討を重ねて来ました。
留学生側の主な課題としては、日本の就職活動の仕組みをよく理解していないという点や、必要な情報が伝わっていないという点が挙げられています[4]。
留学生への就職に関する情報提供は、こうした状況を改善するための重要な打ち手となるでしょう。LIGHTBOATでは、留学生に向けて日本での就職方法を紹介するコンテンツの提供を行っていきます。
併せてこのたび、特別企画として、日本の大学を卒業し、日本の企業で活躍している元留学生の皆さんの体験談をお届けすることとなりました。先輩たちは、どのような希望を持って日本に留学し、どのように就職して、入社後、どのようなキャリアを築いているのでしょうか。
同じお話は1つとして無いでしょう。一人一人に、それぞれの事情、それぞれの考え方、それぞれのストーリーがあります。現役留学生の皆さんが、これから日本で自分のストーリー築いていく参考になれば幸いです。
インタビュアーは、LIGHTBOATの管理人ホアン・ティ・トゥイ・ヴァンと、三澤茉衣です。
ゲスト:リさんのプロフィール
名前 | カオ・タイン・リ(Cao Thanh Ly) |
卒業大学・卒業年 | 立教大学・2011年 |
受給したことのある奨学金 | ・日本学生支援機構(JASSO) ・文部科学省国費奨学金(MEXT) |
現在の所属企業(入社年) | 株式会社ニフコ(2011年) |
導入
リさんは、ベトナムでハノイ国家大学・人文社会科学大学 東洋学部 日本学科(当時。現在は日本研究科)に在籍。3年生のとき、専修大学の交換留学生として来日しました。帰国後、ベトナムで4年生を修了し、再び来日して立教大学に編入。
卒業後は日本で就職活動をし、新卒で株式会社ニフコに入社。2021年11月現在、10年のキャリアを築いています。初めての来日から15年、どのような留学生活を送ったのか。どのような経緯で日本での就職を決め、生活していくことを選んだのか。また、これからの人生について、お話を聞きました。
特別日本に興味があったわけではなかった
―リさんは元々日本学科のご出身ということですが、どのような経緯で日本に来られたのでしょうか。
大学で学科を選ぶとき、国や地域を選べたんですが、18歳だった私は、なんとなく日本語は勉強しやすそうだと思ったんです。中国語は漢字がいっぱい並んでいて複雑そうに見えました。日本語にも漢字はあるけど、ひらがなの混じった文字の並びを見たとき、これなら読めそうだと思いました。
あとは、歴史が好きだったので、日本が第二次世界大戦で敗れた後、わずか20年で経済を急成長させたことにも興味がありました。元々日本に特別な思いがあったわけではないんです。
日本に行ったのもたまたまの縁で、東洋学部が日本の専修大学と交換留学をやっていたんです。これに選ばれました。歴史学科の3年生として専修大学に入ったので、日本語のコースを受けながら、日本人の学生と同じ授業を取っていました。専攻は日本近現代史でした。
ハノイ国家大学・人文社会科学大学 東洋学部 日本研究科について
・1993年設立、日本語教育開始。研究者を輩出することを目的にしている
・日本語のほか、日本の地理・歴史・文化・経済・政治・外交政策なども必修科目に開設
・専修大学、立教大学、早稲田大学などと交流がある
―初めて日本に来たときの印象、そして大学生活はいかがでしたか?
15年も前のことですが、初めて日本の町を見たときの印象として残っているのは、「地味」ということですね。日本人は黒とかグレー系ばかりで、あまりカラフルな服装をしないなと思いました。
家も外観は寂しそうな色が多いし、道も、車があまりクラクションを鳴らさないので静かだなと感じました。こんなに経済発展しているのに、地味な国だなあと。
しばらく暮らしてみて、日本は住みやすい、外国人に優しい国だなと思いました。差別があまりない。言葉が分からなくても、人として接してくれるというか、そんな印象を持ちました。
大学の授業は日本語なので、100パーセント理解できたかというと、難しかったですね。教授は専門の細かい話をするので、授業以外で自分でも本を読んだりしました。
―リさんは、アルバイトも一生懸命されていたそうですね。
そうですね。交換留学の時期は、渋谷のベトナム料理屋でアルバイトをしていました。当時はスマートフォンも無かったので、アルバイト募集中の貼り紙をしているお店に直接電話をして、「応募したいです」と伝えました。
でも、外国人を雇ったことが無いお店ばかりでしたし、日本語もまだよくできなかったので、普通のお店は落ちてしまいました。知らない国の人を雇うとなると、どうしてもハードルがあるんだなと感じましたね。仕方なく、エリアを広げてベトナム料理屋に落ち着きました。
当時、ベトナムの大学生は「勉強に集中」という感じで、アルバイトをする習慣がありませんでした。私はせっかく日本に来たし、ベトナムの大学では経験できないことをしてみたかったんですね。
―アルバイトの収入はどのくらいでしたか?
ベトナム料理屋の時給は900円で、週4日、17時~21時半で働いていました。勉強はもちろんですが、お金を稼ぐことに興味を持って一生懸命働きました。
周りの子は旅行に行ったりしていましたが、私はアルバイトをとったので、遊ぶ経験はほとんどできませんでしたね。なので、ベトナムの大学を卒業して立教大学に編入した後は、たくさん遊びました(笑)。
日本でのキャリアの始まり
―一度ベトナムに帰国したあと、再び日本に留学しようと思ったのは、遊び足りなかったからですか?(笑)
いいえ(笑)。正直にいうと、奨学金がもらえるからというのが理由でした。当時、アジア人財資金構想という、経済産業省と文部科学省が主催している支援プログラムがありました。日本の大学に留学するのための奨学金の支給と、日本での就職活動を支援するためのプログラムです。
立教大学の観光学部にそこからの予算が下りていて、立教大学の受験資格が、ベトナムではハノイ国家大学の日本学科に割り当てられていたんです。せっかく交換留学に行ったのだし、この巡り合わせでまた日本に行くのも悪くないなと考えました。日本に行けば、仕事もあると思ったんです。
結果、学科には45人いましたが、志望者は3人だけで、その全員が受かりました。日本学科に所属していなければこのチャンスは無かったので、私はラッキーでしたね。
―奨学金の支給額はどのくらいだったのでしょうか?
立教大学のときは国費だったので、月13万円近くですね。これは生活費で、学費は無料でした。一般的に生活には困らない金額だったと思います。専修大学の交換留学時も学費は無料で、日本学生支援機構(JASSO)から奨学金として生活費をもらっていましたが、立教大学時の支給は、その1.5倍程度の金額でした。
―リさん、お金持ちだったんですね!
そうかもしれません(笑)。アルバイトもしたかったのですが、立教大学は交換留学ではなく2年間の編入なので、卒業単位も取らなければいけなくて。忙しかったので、2度目の留学では、慣れるまでの半年間はアルバイトをしませんでした。
その後も、長期休暇のときだけのアルバイトが多かったです。旅館の住み込みや、単発の翻訳アルバイトなどをしていました。
―2度目の留学ではたくさん遊んだと仰っていましたが、どのようなことが楽しかったですか?サークル活動などは?
友達といろんな場所へ旅行に行ったのは良い思い出です。日本国内はもちろん、韓国や中国、サイパン島にも旅行しましたね。国内では、大阪観光や東北の温泉巡りなどを楽しみました。
ベトナムの大学にはサークル活動が無いので、やってみようと思って、ちょっとだけ参加してみたんですが、数回で辞めてしまいました。モノ作りみたいなサークルだったのですが、手を動かすなら、話についていけなくても大丈夫かなと思ったんですね。でも、やっぱり会話が進まないと駄目な雰囲気でした。
日本は、中学校・高校から部活があるので、その仕組みやサークルにどういう風に参加すればいいか、みんな分かっているんですよね。当時のベトナムの学校にはサークルや部活はありませんでした。
だから、日本の大学に来てサークル活動というものを知っても、なかなかうまく輪に入れない、そんな感じがありました。
就活は「留学生 採用」で検索
―2度目の留学は2年間の編入で卒業なので、来日して半年くらいで就職活動の時期ということですよね。就職活動は、日本人の学生と同じ流れで進めたのですか?
そうです。私の場合は、奨学金(アジア人財資金構想)が日本での就職を推奨していましたから、来日する前から日本での就職を考えてはいました。プログラムの中に、「どうやって仕事を探す」とか「面接はどうやって行う」といった支援が組み込まれていたんです。
何をやりたいということがはっきりと決まっていたわけではないのですが、ここまで支援してくれるんだからやってみようと思いました。
ハノイ国家大学で日本学科を選んだときもそうでしたが、私の場合、何かを選ぶときに「自分の好きなこと」という軸があまりないんですよね。見えた道を選んできた、そんな感じです。
―チャンスをものにする才能ともいえますよね。就職活動では、どのような道が見えましたか?
就職活動をしたのは2010年で、ちょうどリーマン・ショックの後だったんです。だから、入れる会社があればどこでも……という気持ちでした。
最初は、観光学部ですから、できれば観光業界に勤めたいと思って、ホテルや旅行会社に応募したのですが、ほとんどが適性検査で落ちてしまって。そういうサービス業色の強いところには向かないのかもしれないと思いました。
がっかりしましたが、今度はもっと広げて調べることにしました。留学生を積極的に採用している会社に応募しようと、インターネットで「留学生 採用」で検索して、出てきた会社全部に書類を出しました。書類で通って一次面接の案内が来たら、必ず行きました。
結果、3社から内定をもらって、今の会社に決めました。
―自分の特性を見極めてアプローチを変えて成功というのは、日本の就職活動生にも参考になるお話ですね。ちなみに、アジア人財資金構想の奨学金プログラムには、「何年間日本で働かないといけない」といった制約があったのでしょうか?
そういうのは無かったです。進学する人やベトナムに帰る人もいました。なるべく日本で働いてほしいというプログラムでしたが、強制するものではなく、最終的には自由でした。
日本で築いたキャリアと家庭、そしてこれからのこと
―入社後は、どのようなキャリアを築いてこられましたか?
入社して3カ月研修をした後、「調達物流課」配属の辞令が出て、豊田市の工場で勤務することになりました。突然知らない土地で勤めることになったので、びっくりしました。
最初の配属は、調達物流課の中の受注グループ。外国人だから、例えば「語学に関わる業務を任せてもらえるのかな」とか少し期待しましたが、実際は日本人と変わらない仕事でした。
お客様からの「これを買いたい」「キャンセルしたい」「納期を早めてほしい」といった注文を電話で受けるのですが、工場のラインに使われる部品の手配ですし、間違いは許されません。「だったら日本人がやった方がいいんじゃないか」とか、2年くらい悩みましたが、3年もたったら業務に慣れていました。
うちの会社は、逆にいうと「外国人だから」という制約はないんです。最初の配属も日本人の同期と一緒にスタートでしたし、外国人でも管理職に昇進しています。最初は苦労しましたが、今ではそういう社風、在り方がうちの会社の良いところだと思っています。
―今も同じグループでお仕事されている?
今、3歳と5歳になる子どもがいて、以前育児休暇を取ったのですが、休暇明けに元々いた受注グループのポストが空いていなかったんですね。それで、同じ課内の、材料の購買や変更、納期の調整などをするグループに異動しました。
それまではお客さんの対応窓口でしたが、今度は社内調整ですね。例えば、材料を変えるにあたっては、品質の担保を前提に、いろいろな部門との調整が必要です。当然、納期は厳守しなければいけません。複雑な仕事ですが、だからこそ楽しんでやっています。
―日本で結婚されたのですね。日本での家族での生活について、思うことはありますか?
はい、大学時代に付き合っていたパートナーを、ベトナムから呼び寄せて結婚しました。彼は、18歳のときの私以上に日本のことを知りませんでしたが、私が日本で就職するとなったときに、ベトナムでの仕事を辞めて来てくれたんです。海外に行ったことが無いし、行ってみようかなと。
日本で仕事を探して、一緒に子育てをしています。数年前に一軒家を買って、一家四人です。ちなみにその家のローンは私が組みました(笑)。
子どもたちについては、日本の学校で勉強に困らないようにはしていきたいですね。ベトナム語や英語も教えてあげたいと思っていて、英語はまずは自分が勉強しています。
―結婚のエピソード、なんともすてきです。就職してから10年、日本での生活が当たり前になってきていると思いますが、今後についてはどのように考えていらっしゃいますか?
このまま日本で暮らしていこうと思っています。大学時代の最後の2年間からずっと日本で暮らしてきた私には、逆にベトナムの今が分かりません。日本で家も建てましたし、生活も安定しています。
もしベトナムに帰るのであれば、仕事で悩んだ入社2年目くらいがタイミングだったと思うんですね。そこで残ると決めたので、このまま日本で暮らします。私の在留資格は技術・人文知識・国際業務ですが、今、永住権を申請しています。2年前も申請したのですが、そのときは通りませんでした。
永住権の審査で一番大事なのは、安定した収入があるかどうかで、過去5年分を見られるんです。前回申請したときは、その前に育児休暇を取っていたので、収入面の評価が響いたのかなと。
技術・人文知識・国際業務は、仕事をしている人が持つ在留資格です。何かの理由で急に仕事ができなくなったら、資格を失い、子どもと一緒に帰国しなければならなくなるかもしれません。
永住権があれば、例えば仕事を急に続けられなくなっても滞在できます。このまま今の会社で働いていきたいですが、将来何があるかは分かりません。日本社会に定着している子どものためにも、永住権が必要と考えています。
―最後に、これから日本で働きたいと思っている留学生へのメッセージをお願いします。
日本は人手がどんどん必要になっています。日本で働きたいという思いがあれば、あとはあなた次第だと思う。決めた以上は目標までがんばってほしいですし、簡単なことではないですが、途中で諦めてほしくないと思います。社会にいろいろな支援があるはずなので、探してみてください。
― 今日は、どうもありがとうございました。
おわりに
元々日本に特別な思い入れがあったわけではないと仰っていたリさん。そんな彼女に日本で学び、就職するという選択肢を作ったのは、就職支援を含む奨学金プログラムでした。
考えてみれば、日本人の大学生の多くも、入学時点では将来の志など決まっていません。進路を決めたり、アルバイトで仕事というものを体験したり、就職活動をしたりする中で徐々に自分について知り、その時々の精一杯の選択を重ねて社会人になっていきます。
外国人留学生の採用と聞くと、「グローバルな企業が、グローバルなビジネスのために、グローバルな人材を探している」かのようなイメージを抱くかもしれません。しかし、実際にはそんな時代はもう終わっていて「採用したい優秀な学生の中に、たまたま留学生がいる」、そんな状況が定着してきています。リさんはその先駆け的な存在だったといえるでしょう。
取材の冒頭には、「私なんかのお話が役に立つかどうか」と笑っていたリさんですが、お話を伺うにつれ、そのバイタリティと柔軟性、芯の強い人柄が伝わってきました。同時に、彼女はビジネスパーソンとして、また生活者として、私たちと何ら変わりのない「彼女自身の人生」を、たまたま日本で送っているだけなのだということに気付かされました。
私たちはリさんのような優秀な人材に選択肢として認められ、選んでもらえる国、社会、企業を作っていかなければなりません。等身大の学生にとって魅力的な要素は何か、彼らが必要としている情報や支援は何か、常に考えていく必要があるでしょう。
LIGHTBOATもその一端を担えるよう、これからも情報の発信を続けてまいります。
[1] 独立行政法人日本学生支援機構(JASSO)「2020(令和2)年度外国人留学生在籍状況調査結果」,2021年3月公表,https://www.studyinjapan.go.jp/ja/statistics/zaiseki/data/2020.html(閲覧日:2021年12月20日)
[2] 独立行政法人日本学生支援機構(JASSO)「令和元年度私費外国人留学生生活実態調査概要」,2021年6月公表 ,https://www.studyinjapan.go.jp/ja/statistics/seikatsu/data/2019.html(閲覧日:2021年12月20日)
独立行政法人日本学生支援機構(JASSO)「2019(令和元)年度外国人留学生進路状況・学位授与状況調査結果」, 2021年3月公表 ,https://www.studyinjapan.go.jp/ja/statistics/shinro-and-gakui/data/2019.html(閲覧日:2021年12月20日)
[3] 日本経済再生本部「日本再興戦略 2016 ―第4次産業革命に向けて―」,2016年年6月2日, p.207,https://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/pdf/zentaihombun_160602.pdf(閲覧日:2021年12月20日)
[4] 厚生労働省「第4回外国人雇用対策の在り方に関する検討会 議事録」,https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_19263.html(閲覧日:2021年12月20日)